新型コロナウイルスで引き起こされる
「病気」
それをどう評価するかは 人それぞれ
僕にとってどうか?
それは「怖い病気」
この事は知ってる人も多いけど
僕の肺の機能は普通の人から比べて
数十パーセント落ちている
もしも感染すれば重篤化は間違いないし
命にかかわる状態
だからこの新型コロナウイルスには
ガチで向き合ってきた
そんな僕が思う
今の世界
そして思い描く
ここからの世界・・・
新型コロナウイルスがもたらした世界
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ど~も
趣味はダイエット 特技はリバウンド
ダイエットに希望を詰め込んだつもりでいたら
間違えて脂肪が詰まった
神奈川は相模原市は緑区って言う
もともと津久井郡だった片田舎で
orb hair museumって理美容室やっている、
お酒と音楽をこよなく愛するケンです!!
オーブのコロナウイルス対策
アルコール消毒や次亜塩素酸消毒
法律で定められた紫外線殺菌灯の活用
80度の湿熱による殺菌
充分な換気
そして
オーブではオゾン発生装置で空間除菌を
行い 衛生管理に注意を払い
営業しております
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現在僕は東日本大震災
被災地・宮城県石巻市にて
GOD SAVE THE ROCK'N'ROLLという
「伝える」をテーマにした音楽イベントを企画中です。
このイベントは僕の自腹とご寄付で賄われます。
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三菱UFJ銀行
店番 001
本店
口座番号 7773998
小俣健一郎
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この新型コロナウイルスワクチンにより
5年後10年後にどんな副作用が生じるかは
正直、誰もわかりません。
個々人の現下の関心・問題点はそこにあると思います。
でも
個人ではある僕らは
「個」で暮らしているわけでは
ありません
僕らは「社会」で生きてます。
新型コロナウイルスが蔓延は
社会や人とのつながりを
ソーシャル・ディスタンスの名のもとに
距離をあける事を必要とさせ
コミュニケ―ションを難しくさせました。
人は ヒトの存在から人になる時
コミュニティ=共同体を作りました。
そのコミュニティ・共同体には
共有=コモンが必要でした
コモンはコミュニケーションの語源です。
そう、僕ら人は
コミュニケーションが
不可欠な生き物なんですよね。
新型コロナウイルスは
そこを破壊した。。
命や健康を害するだけでなく
人が積み上げてきた
コミュニケーションを破壊しようとした。
でも・・
僕らはこのウイルスが蔓延する前
素晴らしいコミュニケーションを
取っていただろうか?
パソコン スマホ 様々なツールで
誰もが世界と繋がれて
誰もが世界に発信でき
誰もが世界中からモノが買える
世界は狭くなり
世界の距離は縮まったけど
トランプ政権下のアメリカの人種差別
韓国映画「パラサイト~半地下の住人~」に
描かれたような 経済格差での分断
LGBTや障がい者への偏見・差別
SNSでの誹謗中傷での自殺・・・
僕らは
コミュニティの中で
コモン=コミュニケーションを
ちゃんと、取れていただろうか?
共同体の中で大切にされてきたのは
その価値観を共有すること
それをはかり 確認し 深め合うために
コミュニケーションは
ヒトが進化の過程で営々と積み上げてきた
価値観
でも
どこかその「共有」が歪んで来てた世界
だから前述した誹謗中傷や
差別 分断が噴出して混沌とした世界に
実は僕らは生きていた。
「共有」という価値観。。
同じモノを同じように尊重し
それを共同で持ち合うこと
それが肥大化すれば
同じ言語 同じ皮膚の色
同じ国 同じ宗教
同じサイト 同じ思考・・
「共有」は「同じ」という意味だろうか?
今まではそれで人は来たんだろうね。
それが可能なくらい 世界は小さかった。
でもこうして 世界は繋がりあい
干渉しあい 影響しあう時代
「同じ」が「共有」になることで
純化され 尖鋭化され
時にそれが排除や諍いを生む原動力に
変質してしまう事も多くなった。
僕たちの
コミュニケーションは
正しかったのだろうか?
新型コロナウイルスの世界は
それを考えさせる時なんじゃないか?
個人と社会
その繋がり
コミュニケーションの意味を
問いかけてるんじゃないか?
元の世界に戻るとしても
僕らは単に居酒屋で好き勝手に
飲んで騒げる世界だけに戻るだけじゃ
この経験 世界中が等しく同じく
経験することなんてそうはない出来事を
無駄にする訳には
この時代を生きてる者として
してはいけないんじゃないか?
もしかしたら
これからの時代
アフターコロナという時代の
大きな価値観は
共有という意味の変化・・
同じモノを大切にする
そういう時に狭くなる共有から
違う事を共有する
僕とアナタは違う
肌の色が違う
言葉が違う
手の本数が違う
好きな性が違う
僕とアナタは違うんだよね
そこには排除でなく
認め合う共有
それがアフターコロナの
大きな価値観じゃないのか?
だから
ワクチンを打つ・打たないも選択は
各々個人の自由でも
その自由には「社会への責任」が伴う。
そうだよね?
個人は社会で生きてて
その社会というコミュニティに参加して
そしてその中でコミュニケートしてるんだから
自分の選択を大切にすると等しく
自分以外の人の大切なものも大切にする
違う人の 違うモノも大切にする
例えば
お米を食べる。
自分はワクチンを打たない選択をした
でも
食べてるお米農家さんは高齢で
ワクチン接種を必要としてて
その人には病気を抱えてる奥さんがいる
会う事はないけど
そのお米で繋がり そこには
ある意味『コミュニケーション』が生まれてる
そのお米を運ぶ人は
ワクチンを打たない 打ちたくない
でも
販売店の方はワクチンを打つ
なぜなら病気があり 怖いから・・
このように社会は
会う事なき コミュニケーションなしでは
ごはん一膳食べる事が出来ない。
自分のコミュニティ 自分の同調者だけで
成立する世界はもう無い。。
だから
このワクチン一つとっても
そこにある 自分と社会との
コミュニケ―ションというものを
考えなくてはいけない。
みんな違うから
みんなそれぞれだから
みんなで考え 選び 尊重した
コミュニケーショをしなければ
諍いや ギスギスした社会になる。
僕らはその分岐点に立っている。
僕はワクチンを打ちます。
それが僕の家族
僕の健康
僕の友人
僕の店
僕のゲスト
打てない12歳以下の子供や
僕は会う事ないけど 僕の生活に
関わる全ての人の大切なものを
守れると考えるから。
一番大切なものは
絶対他人から奪ってはいけないから
それが僕の選択で
その上で蔓延防止に今まで通り
誠実に向き合います。
それが僕の
社会とのコミュニケーションの仕方。
東日本大震災の被災地で
最初に言われた言葉
「1000年後の未来の教科書に載るんだ」
この言葉は僕のDNAに書き込まれて
この言葉を信じて生きてる。
この新型コロナウイルスの
パンデミックも
世界のすべての歴史のDNAに
書き込まれて未来に伝えられるんだろうね。
この経験は
僕らが書いていく
DNA Odyssey(大叙事詩)
なんだとおもう。
あっ
コレ
床屋のブログです
(≧▽≦)
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