「ここの数値は〇〇シーベルトだから安全です」
「この地域は除染してあるから安全です」
「この魚からは不検出でした」
数値や対策はある意味「指標」でしかない
安全であろうが「安心」して暮らせるか?
心地よく暮らせるか?
誇りをもって故郷と言えるか?
そこが一番大切で
福島第一原子力発電所事故という
放射性物質の問題と生活者の問題や関係性は
切り離せないけど ごった煮で考えてもいけない問題
発信する される画面や文字の向こうに
「人」がいる
同じように喜怒哀楽を持つ「人」がいる
警戒してもいい
疑念を持ってもいい
むしろ当然でその姿勢は正しい
でも そこに「人」がいる
その人を傷つけてはいけない
そんな権利は誰にもない
理解なくして放出しない
そう言った政府のこのいきなりな決定
丁寧さなんて感じられない今まで
東電の発言は聞こえてこない・・
でも そこにも「人」がいて
東電 政府 経産省の組織でなく「人」の中には
何とも言えない悔しさ もどかしさ
忸怩たる思いでこの決定を受けた人もいるだろう
そう信じたい
なにより・・
僕らはチェルノブイリ事故の時
清志郎が叫んだ声に耳を傾けず
その後も どこか傍観者のように
原発の生みだす電気で自由な生活をしてきた
そして事故が起きてしまった
僕らは知っていた でも目を覆い
耳を塞いでいた
知れたのに 知らないふりしてた
僕らは「共犯者」だ
だから これ以上「加害者」になりたくない
安全は僕らには作れないけど
福島や近県の方々の「安心」の一助はできるはず
それは「知る」ことから始められる
僕は反原発だけど
反原発どっぷりの団体や個人の発信には
距離を置いて 自分で動いて見聞きして
「知る」をしています
知ることを諦めない
僕はそれがしたいだけ
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