代表・ケンとしてのブログです。
髪の話・・・出てきません。
まぁいつもあんま出てきませんが(;´・ω・)
ゴホン・・
ここからは真面目に・・
来週 再び石巻に行きます。
今回は 仮設住宅の方々と
日帰り温泉で宴会して
翌日は 被災しそこから立ち上がった
障がい者支援施設 織音(オリオン)に行き
そこでの活動「機織り」
そして
いつも活動を共にしてくれる
cool beauty ベリーダンサー愛葉さん
このライブ 踊りも演奏もほぼ即興です・・
すげぇ~っしょ?
の ミニライブをしてきます。
この活動で
僕ら
東日本大震災
ボランティアグループ・
cocoroの
「支援活動」は
一旦区切りを付けます。
思えば 2011年4月17日夜
何も分からず ただ仕事の道具や
スコップ ヘルメット ガソリン・・
思いつくものを車に詰め込んで
ガタガタの東北道を走り
石巻に行き着いてから
ガチの6年目のその日になります。
そこで 区切るって想いがあったわけでは無く
単なる偶然ですが・・
今まで 最高に素敵な素人集団だけど
リーダー(僕)が感情的にすぐなり
怒るし 泣くし 飲んだくれて 眠る
ボランティアあるまじき数々の暴挙を展開してきた
僕を 多くの方々が支えてくださいました。
その方々へも含め
何故 活動に区切りをつけるか
この場をお借りして(って俺のブログだけど)
ご説明をしていきたいと思います。
長文ですが お読みください。
その理由はいくつかあります。
順を追ってご説明します。
一つには 僕たちが向き合って来た
「糠塚前仮設住宅」
ここがあと少しで解散になり 解消になるからです。
これは喜ばしいことです。
「被災者」と言う立場の方々が
(厳密に言えば多少違いますが)いなくなり
「復興者」へなるからです。
僕ら「ボランティア」と言う存在がいる限り
彼らも「被災者」でありつづける・・
この因果関係は如何ともしがたく
そこを断ち切る係は僕らに委ねられてると思うのです。
その為に僕らは僕ら自身で幕を引かなくてはならないと思うのです。
そして二つ目は
実は先月一人で石巻に行き
仮設にいた方と話をして来たなかで
「仮設住宅」への本心が見えたという事です。
実は前々から気が付いていたんですが
被災者の方々には
「仮設住宅と言う場所は嫌い」
と言う大原則があることです。
キライな環境下
その上にどんな楽しい思い出を積み上げようと
ベースが「嫌な場所」なので
どうしても「美しい思い出」にはなりえない・・
イジメられっ子が学校を懐かしめないと同じかな?
一生懸命仲間みんなやご支援していただいたことを
このような言い方をして申し訳ありませんが
それが「現実」なのです。
「あんまりもう関わりたくないんだよね、仮設には」
「なかなか難しいね 思い出すのは」
「見たくないんだよね」
その言葉を聞いて僕の感じてたことが確信に変わりました。
僕らが居続ける事は
仮設の思い出を嫌が上にも引きずり出す事になります。
とは言え 僕らが「嫌な思い出」と言うわけではありません。
ここは誤解しないでください。
皆さんに支えていただいたことは
確実に息づいています。
きっと すべては楽しい思い出として刻み込まれてると思います。
ただ 「仮設住宅」を思い出すことが辛いのです。
まだ生々しい記憶で
もう少し時間が欲しいんだと思うのです。
また、自治会も解散してしまい
お世話になり続けた糠塚前仮設住宅自治会長も
実はすでに自治会長ではないのです。
僕らと何かをすることは大きな負担になっています。
以上の事を考えて 一旦僕は区切りをつけては?と思うのです。
僕らの想いは脇に置くべきなのです。
とは言え 僕らが皆さんのお陰で
積み上げてきた時間は無駄ではなく
育ませていただいた「繋がり」はこれからも続きます。
僕は個人と言う立場に戻っても
僕はこれからも仮設にいた方々とも繋がり続けるし
震災ツーリズムなどという
もっともらしいこと言いながら
「石巻に遊びに行く」を企画して
東日本大震災というものに向き合い
知ることをあきらめず 伝えて
ボランティア 被災者 という壁を越えて
これからの目標
ボランティアで「来た」東京の小俣さんから
ボランティアで「来てた」東京の小俣さん
そして 東京の小俣さん
やがて 小俣さん
で、理想は コイツ(笑)
ただの「人」に戻るため行き続けます。
じゃぁ 続けてく方法
考えりゃいいじゃんて話ですよね??
でも 僕は「ボランティア」と言うモノの
本質に僕なりに答えを見出してしまったのです・・
つづく・・
あっ!
ちなみに 僕がヘアカットをしていたのは
2011年最初の年の9月までで
それ以降は 立ち上がった理美容室のため
僕は一切 ボランティア活動で髪は切っていませんので!
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