これは
「人間賛歌」です。
たくさんの悲しみは消えなくとも
生きているのも 亡くなった者
すべての「命」への賛歌です。
*震災時の街や避難所の写真などが映されます。
視聴には十分ご配慮ください。
ピアノ:川久保典彦
詞 :スミアヤコ
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MBLTフェスでの 僕の「語り」内容
5年半前・・・6年前っていいかたで良いんですかね?
2011年3月11日に発災した東日本大震災から
もう それだけの時間が流れました。
今日は3月10日です。
そう・・明日で6年になります。
6年前の3月10日 震災の前の日・・
東北では 今の僕らと変わらない「普通」の暮らしがあったことでしょう。
この時間・・ある人は晩御飯を食べ ある人は今の僕らと同じように
音楽に身を任せていた人もいるかもしれないですね・・
そんな 何気無いどこにでもある「普通」の暮らしが
24時間後くらいに 全てがひっくり返った・・・
そんな 境目 今振り返れば 今日という日は 様々な人の「ボーダー」
そういう一日なんですね。
初めまして。
東日本大震災ボランティアグループ
cocoroの代表をさせていただいております
小俣健一郎と申します。
仕事は理美容師 髪を切る仕事をしています。
いきなり こんな映像が流れてビックリしましたか??
実はこのMBLT Fesには 隠れテーマがありまして
それがこの 東日本大震災 というモノなんです。
僕は東北出身ではありません。
ただあの震災を受けて TVから流れれる
震災の映像を見て 何かしなくちゃ!単純にそんな思いに駆られ
2011年4月 震災から1か月目に
思いつく道具や仕事の道具も積み込んで
最大被災地・宮城県石巻に行きました。
それからの僕の活動を 少しだけご紹介させていただきたいと思います。
最初に行った 石巻は2011年4月
あてなく行くつもりが 知り合いの知りあいの知りあいが
石巻で被災してる
どうせ東北にいくなら彼のところに行ってくれないか?
そう言われ僕は石巻に行く事になりました。
まさかそんな始まりが
6年にもわたる活動のとっかかりとは。。って思います。
ガタガタの高速道路を走り 石巻に着いて
運命の出会いと言えるのかな 佐久間令と出会いました。
彼の家の軒先を借りて 近在の被災した方の髪を切りまくりました。
2日で何十人切ったかな・・
泣きながらあの日を語る人や
口惜しさを語る人
堰を切ったように皆さん僕に
震災から1か月の間を語ります。
その中で異口同音に皆さんが 本当に皆さんが言うのは
「伝えてくれ。本当の被災地を伝えてくれ」でした
「目に焼き付けていけ」でした。
そこで 僕は帰りに
石巻の被災地すべてが見渡せる
日和山に登りました。
小雪が舞う寒い夕方
そこにあったのは
「音の消えた街」でした。
音が消えた・・
それは車の音とか 工場の音 人の声 足音・・
そう言う音ではなく
世界中に本当は満ち溢れてる
今ここにも満ち溢れている
人の鼓動 血液の流れる音・・
決して聞こえることはないんだけど世界に
この場所にも満ちているはずの
その「音」が消えた街でした。
風の音しか聞こえません。
僕は思ったんです その時。
ここに この街に
二度と消えない音を響かせてやろう
この場所から音楽を響かせてやるんだ!
楽器も出来ないのに
その想いが やがて僕の中で大きくなっていきました。
その日の帰り。
僕は衝撃的な体験をしました。
帰りの高速道路のサービスエリアでご飯を食べました。
これが衝撃的な出来事です。
石巻でほんの3~4時間前にカットした人の多くが
体育館などの「避難所」で暮らしていました。
避難所の食事は おにぎりにパンのみ配給され
後は自主的 もしくはボランティアが温かい汁ものを作る程度です。
おにぎり パンは選ぶ事は出来ず
ただ与えられたものを食べるのみでした。
「選びたいな~ご飯を・・前は当たり前だったのに」
これはカットした女性の呟いた言葉です。
そして僕。
今サービスエリアで 食事のメニューを選んでいる・・・
この現実に衝撃を受けました。
僕には 帰れば暖かい布団 選べる食事 変わらぬ仕事
待っていてくれる家族がいる・・
すべての日常があって
僕は避難所の冷たい床に寝てもいない
ひもじい思いもしていない
何も失ってもいない
そんな僕に 何が出来る?何が分かる?
分かちあえる?寄り添える?
何も出来るはずがない、分かるはずがない、
だって僕は被災していないから。
この「壁」を「ボーダー」を知ったことが僕が
この6年間石巻で活動して
受け入れてもらえた最大の要因だと思っています。
僕は「ボーダー」を引きました。
僕には何も分からない 何もできない
僕とこの街の人たちの間には
ボーダーが境界線があるって。
こんな風に 夏祭りしたり
クリスマスしても
僕らには決してわかることのない
越える事の出来ない壁がある。
でも 僕らメンバーは
そこに壁が ボーダーがあるなら
その壁に額こすりつけて祈り 境界線の溝の突端に立って
一番近くにいて 何もできないのなら
せめて
知ることをあきらめないでいよう
そう思い活動してきました。
そう・・・僕らは何にもなくて 出来る事もそう多くは無い
出来る事はただ一つ
「一緒にいるよ 一緒に笑おう」
一瞬でも その日 その時だけでも 笑おうよ一緒に
ただそれを繰り返してきただけです。
いつか起きると言われ続けてる
東京や東南海地震 またはもう日本中いたるところで起きる災害
被災地というモノが 東北だけに限ったモノではなくなった今
僕らが出来ること。
それは 誰かを助けるなんてことは出来ないと思うのなら
自分を助けてください。
自分が備え 準備しておくことで
浮いた水 食料 毛布・・マンパワーが
災害弱者と言われるお年寄りや 子供に
障がい者の方に行きわたります。
自助 自分を助けることは 誰かを助けることになるのです。
そして ボランティア。
これは敷居が高いと思ってる方多いでしょ?
ンな事ないです 僕は言えます
「遊びの一環」でやってるって。
楽しいからやってるって。
出なきゃ 続けられません!
いいんです それで!
そして 忘れないでください
ボランティアなんて続けちゃいけません。
ボランティアなんてさっさと辞めるべきです。
だって そこに助けを求め 困ってる 不自由な人がいるって事だから。
ボランティアなんて概念さえ さっさと辞めて 普通にしていく事です。
今 6年がたとうとしています。
確かに街には新たな建物がたち 造成された住宅地には
急ピッチで家や災害復興団地が作られています。
少なくなった仮設住宅の住民
それは良いことではあるけれど
でも 今でも仮設住宅はあり
そこに暮らす人もいます。
小人数では 自治会の解散により
コミュニティー機能が崩壊し
仮設住宅の方の孤立がより深くなっています。
では災害公営団地に入居したお年寄りたちはどうかと言えば
そこでの新しい人間関係に馴染めず
新たなコミュニティーは生まれにくく 機能せず
「孤独死」の問題が増え始めています。
それが 「復興に向かってます」と言われている 今の現実です。
衣食住が足りる事が 復興なのでしょうか?
そうではありません。
そうさせてはいけないんです。
震災から5年数か月かけて
僕は被災地 被災者の方とボランティアという
ボーダーを 心のボーダーラインを
決して越えずに活動してきました。
これから僕はまた5年数か月かけて
その心のボーダーを越えていこうと思っています。
それは ボーダーを消すのではなく 消せるはずもないけど
僕は越えて「普通」に戻ろうと思っています。
ただ一緒にいる ただ一緒に笑う
ただの「人」
石巻の人 東京の人
ただの人
ただそれだけの関係に。それが僕のこれからの夢です。
僕らは偶然にせよ運命にせよ
この時代に生まれ 出会い
この場にいる皆さんも
3・11という未来へ伝えるべきバトンを
それぞれが持っていると思うんです
コメントをお書きください
日野 茂樹 (月曜日, 13 3月 2017 23:13)
被災者です。
分かり得るなど無理ですよ!伝えて風化しなければ、私達の救いです!
まだ、まだ終わりなどない、人災の始まりです!
人災に打ち勝つ為の力になって下さい!
特に、避難しなかった在宅のケアが膨大に残っているのだから。
ある意味、在宅の方は何の恩恵もボランティアさんにも会ってません。語っていません。
そして、忘れられています。
被災者が本当に望むのは、沢山聞いて欲しいのかもしれませんね!
これからも、被災地を語って下さい!
小俣健一郎 (水曜日, 15 3月 2017 19:46)
日野さん 初めまして。
お読みいただき、ありがとうございます。
そうですね 人災の始まり・・そこには激しく共感しますし 在宅被災者の問題・・ここは何度かブログでは発信してるんですが MBLTでは話す時間がありませんでした。申し訳ありません。
在宅被災の方の窮状は見聞きさせていただいてきました 135万程度の見舞金だけですべての支援が打ち切られ ブルーシートを巡らせた家に住み続けてる方も・・と。
今後僕は何をして行くか・・そこに悩みはしていますが 地域コミュニティーを僕らが生みだすというのは 少したち地に問題があるように感じています。
でも そういう活動をされている方やNPOなどと連携していけないか・・あくまでも地域コミュニティー再生の主体者は 石巻市民 被災者と非被災者であると思っているので そこをうまく援護射撃できるような活動を模索しています。
日野さんも何かお知恵やアドバイスございましたら よろしくお願いいたします。