2011年3月11日のこと。 知ること・・それは未来への支援活動。

 

 

お会いした 50人くらいの被災者の方 全てが 本当に全ての方が言っていた言葉が



「伝えてくれ!

 

 本当の被災地をみんなに伝えて欲しい。

 

 その目で見て 焼き付けて伝えて欲しい」

 

 

そういわれて帰ってきました。

 



僕の感想は後にして その思いを先ずは伝えます。

 

 

 

 

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2011年4月の 僕のmixiの日記です。

 

この書き出しから 

 

僕の東日本大震災活動記は始まりました。

 

 

 

僕が 今も通い続ける理由・・

 

それは あの日

 

2011年4月18・19日に

 

お会いした 髪を切った

 

 

石巻の人たちとの

 

この

 

 

伝えるという

 

 

約束

 

 

これが僕の中で 今も燃えているから。

 

 

 

 

毎年3月11日を前は、淡々としてるんだけど、

 

「今」僕の周りには このブログやフェイスブックで

 

きっとこの

 

 

「伝える」を

 

 

「受け取ってくれる」

 

 

そう思える友人が

 

あの頃よりも増えました。

 

 

 

伝えて欲しい

 

そう言われ

 

伝える為には その「約束」を果たす為には

 

誰かがいてくれなければ なりません。

 

その「誰か」が 今また増えてきてくれたという事は

 

やはり 伝えなくちゃいけないと思うのです。

 

 

 

思います

 

続けてて 凄いね

 

偉いね 現地に行って・・

 

そう言っていただけること 本当に多いです。

 

 

そして 私にはできない・・とも。

 

 

 

でも

 

この「5年」の時間の中

 

「支援」の意味は変わってきたと 僕は思っています。

 

 

それは 最初は「行く事」確かにそうでした

 

「支える事」本当にそうでした。

 

共に笑い 飲み 泣き 怒ることでした。

 

 

でも

 

今は それだけじゃありません。

 

 

知ろうとすること 考える事 伝える事・・

 

 

これも「未来への支援」なのです。

 

 

 

必ず起きる 自然災害・・

 

その「未来への支援」

 

それがあれば

 

減災になり

 

誰かが誰かを助け 支える何かに繋がり

 

もしかしたら

 

 

 

命が救えるかもしれません。

 

 

 

その為に

 

「知ることをあきらめない」なのです。

 

 

あの日 現地で聞いた

 

生の言葉たちです。

 

 

どうか お読みいただき

 

知り、考え 誰かに伝えてくだされば

 

あの日の僕の約束は また一つ果たせた事になります。

 

 

 

どうか ご協力ください。

 

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「俺は働くよ!

こうしていろんな人が俺たちの町のために来てくれる恩返しに

 俺は働いて税金納めて それが復興だし 恩返しだよ」
                     


                         
「俺たちは1000年に1度の災害を経験した 

ってことは俺たちは教科書に載るんだ 

俺たちがどうして被災して 何が問題で 

どう復活したかそれが教科書に載るんだから 

1000年に一度の検証が俺たちの役目だよ」



                        
「今日 俺のおかあちゃん焼いてきたんだ 今日が通夜なのかな」 

           

「食ってくれよ 遠慮すんなよ それしか今恩返しできねぇんだ」


           
「生きているだけで良い・・そう言えないんだよね」

 



「石原軍団なんてあんなの支援でもなんでもない 

整理券なくちゃ入れないなんて 本当に必要な人に何にもしてないのに」

 


「ホームセンターで被災してね 屋上の駐車場に逃げて 

もう駄目だって思ったけど 家族が一緒だからもういいかって思った」

 



「食料も何もなくて 流れてきた魚を食べてた イカがたくさん流れてきて 

でも重油や何かでベトベトで 水もなくて 

流れてきたお酒で洗ってそれを食べたの。

臭くてね。でもそれしかなかったの 

子供は食べるんだけど吐いちゃって・・

あっでもアナゴは美味しかった(笑)」

 



「ヘリコプターが飛んできた時は あぁ助かったと思っても 

何もしてくれなくて 救援も来ない。

何度も何度もヘリは来るんだけど 何もしない。
そのうちヘリコプター見ると腹が立った。

やっと物資を投下したのは6日後だった・・」

 



「避難所に何とか辿り着いたら 定員だからもう駄目って。

せめて赤ん坊だけで言っても駄目だった ミルクさえくれなかった」

 



「今は知り合いのところに世話になってるの 

だってね孫が「普通のおうちに行きたい」って言うの・・

ずっと家族みんなで車の中で暮らしていたから」



「助けられて 最初に孫がジュースをコップ一杯注がれてね 

「ねぇ全部飲んで良いの?」って。 

屋根の上で救助を待っていた何日かは 流れてきたものを一口ずつ分け合って

みんなで飲んでたから」



「行政は何もしない!」



「避難所に援助すれば大丈夫って思ってる人が多い。

テレビとかが本当のことを伝えていないから仕方がない。

こうなって初めて知ったの テレビや行政は簡単でわかりやすいことしか 

やらないし伝えない」



「必ず伝えて欲しい」

 


「地獄でした  本当に地獄でした」


「お母さんがね 子供を濡らさないように水の中を歩いていたの 

そしたら流される人が 助けて!って藁をもすがる思いで 

子供の足を掴んじゃって・・子供ごとその人は流されて行っちゃったの」



「幼稚園バスがね 横倒しになって そこに火災が来て みんな死んじゃった」


 

 

 

 

 

震災時の画像があります。

視聴には十分ご留意ください。

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コメント: 2
  • #1

    masayosi oono .ginga (土曜日, 05 3月 2016 17:34)

    被災者一人ひとりにあの時の物語がストーリがありました、見聞きしたことを思い出しては胸が痛み涙する自分、・・・そんな悲しみをうけとめ、さりげなく笑顔で接し、さりげなく
    励ましてくれる人たち仲間がいる日本人で日本に生まれてよかった、そう思います。   
    被災者といわれる人たちがこれからの社会に発生しないことを祈ります。

  • #2

    けん (土曜日, 05 3月 2016 20:05)

    パパ 
    最初の言葉2つは パパの言葉だよね。
    初めて会った日の。

    あの日から5年だね。

    パパ存在に 俺たちはどれだけ支えられたか。

    あの日から 始まったこと 知ったこと 感じたこと

    しっかり伝えて 繋ぎながら 

    被災者と言う人が 一人でも少なくなるように
     
    微力を無敵に尽くす。

    パパの涙は無駄にしない。

    約束します。