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最後の審判

 

 

システィーナ礼拝堂にある

 

ミケランジェロの描いた

 

 

 

中央に描かれた人物がイエス・キリスト


神による最後の、そして永遠の裁きを描く

 

『最後の審判』

 

キリストが、死者を天国と地獄に分ける

 

裁きをしている姿を描いています

 



神の許しを得た者は左側上の天国へ昇天し、

 

神に背いた人物たちは右側下の

 

地獄へ堕ちていく姿が描かれているのです

 

様々な表情や体勢をしている400人以上もの人物が描かれている

 

 

いろんな画家が「最後の審判」を描いてるけど

 

 

要は「最後の審判」って言うのは 

 

ユダヤ教やキリスト教 イスラム教などにある

 

世界の終末・人生の終わりの時に

 

生前の行いから 

 

天の国に行けるか

 

地獄に堕ちるか?

 

裁きを受けるというもの・・

 

 

 

55歳の時思ったの

 

人生100年時代と言うなら

 

人としての「自我」や「人間関係」を

 

自分で構築して その中で

 

出会い・別れ・選び・捨て

 

迷い・戸惑い・夢見て、挫折して

 

集い 孤立し 繋がり 離れ・・・

 

様々な事を10歳くらいから人ははじめ

 

55歳の時を思えば つまり45年間

 

人として社会の中で生きていた

 

 

人生100年なら 100-55=45・・・

 

 

つまり、55歳って丁度

 

自我を持ち歩み始めてと

 

命尽きる時の 真ん中の歳で

 

もしかしたらね

 

僕らは10歳から55歳までに歩んできて

 

生きてきた「45年の自分」を

 

ここから死に向かう「45年」で

 

その答え合わせをしていくんじゃないかな?

 

  

「最後の審判」は死ぬときや世界の終末の時に

 

裁かれるというけど

 

僕は最近思うの、その裁きって 

 

人それぞれの尺度があってもいいだろうけど

 

僕が思うのは

 

「周りにいてれる出会った人、環境、状況」

 

そこに判決と言うか、裁きが

 

見えるんじゃないかな?って

 

死ぬときでなく 生きていくこれからが

 

裁きの日々なんじゃないか?

 

その裁き、判決のカタチや答えは

 

ここから この年から出会う人もいるけど

 

それでも「ここまで」の出会いで培われた

 

僕という「人」

 

そこがベースになり出会うわけで

 

そこをベースになり生まれる環境、状況な訳で

 

今までの「自分」がここから裁かれるんじゃないかな・・・

 

 

もちろん 嘘もついてきた

 

誤魔化しも 裏切りも 良くないことも

 

人一倍してきた。

 

でも、今僕の周りには

 

本当に本当に本当に 何千回本当にを繰り返しても

 

感謝が足りることのない人がいてくれて

 

その人たちがくれる環境は心地よく

 

状況は素晴らしい景色で・・

 

 

 

もちろん思い通りにいかないこともある

 

それも人生と受け入れることも出来てる

 

 

 

最後の審判てさ

 

「その日・その時」ではなく

 

ここから始まる日々がそう言う「期間」になり

 

今日からの日々を経て、命尽きる時

 

「あっ良かったな 俺の人生」

 

そう思えたら 死んでから行く場所での天国ではなく

 

その「人生そのものが天国」

 

死していく場所なんてどうでもイイじゃんって

 

思える気がするの。

 

 

それに・・のこり45年無いかもしれない

 

その日は突然訪れるかもしれない

 

でも本気で思う

 

「まぁ今最高に幸せだもんな」って

 

 

 

そう思わせてくれるここまでの自分に

 

関わってくださった方への感謝

 

ここからも関わってくれる方への感謝

 

そして、これから出会うまだ見ぬ誰かへ

 

僕の「最後の審判」は始まりました。

 

 

ワクワクした日々

 

やりたいこと満載の日々

 

 

人生のその日まで楽しみつくさねば!!